2005.9. 4.の説教より
「 わたしにとって大切なもの 」
マタイによる福音書 13章44−55節
このところでは、天の国が「畑に隠された宝に」、「探しあてられた良い真珠に」、そして、また、「網いっぱいに捕れた良い魚と悪い魚に」譬えられています。内容的には、「畑に隠された宝」と、「探しあてられた良い真珠」の譬えと、「網いっぱいに捕れた良い魚と悪い魚」の譬えとでは、その語られているところの意味合いがだいぶ違っているように見受けられますので、分けて取り扱うことにしますが、「畑に隠された宝」と、「探しあてられた良い真珠」の譬えと言いますのは、天の国が、持ち物の全てを売り払ってでも手に入れたいと思うもの、その価値が分かる者ならば、持ち物の全てを売り払ってでも手に入れたいものとして語られた譬えであるのに対して、「網いっぱいに捕れた良い魚と悪い魚」の譬えと言いますのは、世の終わりの時に、天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分けるとありますように、世の終わりの時の裁き、審判との関わりで語られています。
まず、「畑に隠された宝」と、「探しあてられた良い真珠」の譬えのほうから見て行きたいと思いますが、畑にどうして宝が隠されていたのか、埋蔵金伝説でもあるまいし、畑に宝が隠されることなどあるのか、ということを考えてしまうのですが、イエス様の時代のパレスチナおいてはどうかと言いますと、まんざらないことでもなかったと言われています。それには背景があるのですが、あまりにもパレスチナの地が戦乱に巻き込まれてしまうことが多かったものですから、大切な物を、それこそ宝と言えるうな金や銀、宝石の類を、戦乱に巻き込まれる前に、畑などに隠して避難するケースもあったということです。時には、畑に宝と言えるような物を隠した人たちが、戻って来ることもないまま、畑に宝が埋もれてしまい、思わぬときに発見されることもあったということです。まさに、そうしたことを背景にして、「畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」と譬えられているわけです。つまり、その畑に宝など隠されていることを秘密にして、もし、畑に宝などが隠されていることが明らかになってしまいますと、畑の持ち主がその宝を掘り出してしまうため、宝を手に入れることなどできなくなってしまいますので、あくまでも宝のことは秘密にしてその畑の所有権を手に入れなければならなかったわけです。ですから、その畑の所有権さえ手に入れることができれば、たとえ持ち物をすっかり売り払わなければならなかったとしても、そんなことはたいした問題ではなかったのです。喜びをもって、持ち物をすっかり売り払うことができるかもしれません。それも、それほどの抵抗もなくです。
「持ち物をすっかり売り払って」ということで思い起こす聖書の話があります。言うまでもなく、「金持ちの青年の話」です。この福音書の19章に出てくる話となりますが、「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」といった要求を、イエス様が金持ちの青年に対してしたという話です。その話の中では、結果として、その金持ちの青年は、持ち物を売り払って貧しい人々に施すことができず、完全な者となることを諦めて、イエス様の前から去って行くこととなるわけです。では、この畑に宝が隠されているのを見つけ、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買った人との違いは、いったいどこにあったのかと言えば、持ち物を全て売り払ってしまうことで、手に入れようとしたものの違いであったことは明らかです。金持ちの青年が手に入れようとしたものが、「完全」、完全な信仰者としてのあり方であったのに対して、持ち物をすっかり売り払ってしまった人の場合は、「宝」であったからです。もっとも、私たちにできる完全な信仰としてのあり方などあるのでしょうか。このお金持ちの青年は、たいへん真面目な方だったようですので、もっとちゃんとしたと言いますか、もっときちんとした信仰者になりたいと考えていただけのことかもしれません。しかし、「宝」に比べれば、持ち物をすっかり売り払ってまでとは考えないものだったのではないでしょうか。いずれにしても、見つけたものの価値がどれだけ分かっているかどうかによって、さらに言えば、その人にとってどれだけ大切なものとなっているかどうかによって、それを手に入れようとする際の態度にも違いが出てくることは明らかです。
近頃は、そういう言い方はあまりされなくなったように思われますが、かつては、よくこんな言い方がなされていたわけです。「献金は信仰のバロメーターである」という言い方です。献金という言葉が使われてはいますが、必ずしも、献金のことだけでなく、時間を献げるという意味での礼拝を守ることや、労力を能力、賜物を献げるという意味での奉仕ということをも含めて考えても良いのではないかと思われますが、そうした献金や礼拝を守ることが、また、奉仕するということが、さまざまなもっともらしいことがらにとって代わられ始めるとき、私たちの信仰のバロメーターもどんどん低くなって、低い値を示すようになるという意味で、そのようなことが言われていたわけです。逆に言いますと、信仰のバロメーターが低い値を示すようになっているということは、神様を信じていないというわけではないとしても、それだけ神様のことなど、どうでもよくなっているという言い方もできるわけです。少なくとも、イエス様のここでの言い方からしますと、そのようにも考えられるのではないかと思われるのです。
次の「探しあてられた良い真珠」の譬えなどは、真珠の価値を誰よりも知っている商人、商売人だからこそということがそこでの重要なポイントとなっているわけです。私たちなどは、ともすると物事の表面上の見かけに左右されてしまって、そのものの本当の価値など少しも分からないということがあるものですが、さすがに商売人ともなりますと、表面上の見かけだけに左右されず、しっかりとその本質を見抜いて、価値があるかどうかを判断するというになるのではないでしょうか。また、そのように見る目がなかったならば、商売人は勤まらないわけです。そうした商売人が、「出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」というのも、明らかにもっとそれで儲けるのが目的であることは明らかなわけです。商売人の方は、どのような場合であっても、損をするようなことはしないからです。そのことを、「天の国」との関わりで言いますならば、今、自分が所有しているものよりも、持っているものよりも、「天の国」の方が、どれだけ価値があるかが分かっていたならば、どんなことをしてでも「天の国」を手に入れようとするはすではないか、さらに、私たち流の言い方をすれば、礼拝を守ることを、献金することを、奉仕することを大切にするはずではないか、ということになるかもしれません。
そして、三つ目の「網いっぱいに捕れた良い魚と悪い魚」の譬えは、明らかに、世の終わりの時に、天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分けるとありますように、世の終わりの時の裁き、審判との関わりで語られていますので、前の二つの譬えとは、明らかにだいぶ意味合いの違うものとなっているわけです。しかも、49節・50節となりますが、「世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」とありますように、審判においての恐ろしい裁きまでが語られていますので、そのままの読み方からしますと、そのような裁きを受けなくても済むようにしなさい、「良い魚」と判断されるようにしなさいと、イエス様は語っておられるようにも考えられるわけです。ただ、私などは、そうした読み方というのは、きわめて教訓的な読み方ということになってしまうだけで、私たちの罪のために十字架にまでかかってくださったイエス様との関わりから言いますと、きわめて不十分な読み方となるのではないかと思っているわけです。むしろ、そのような教訓的な読み方をするのではなくて、前の二つの譬えとの関わりで、私たちが、「神の国」に入れるものとなるために、それなりのことをしているならば、たとえ、そのやっていることが不十分であったとしても、問題性があるものであったとしても、それでも、良い魚と判断されるということを、イエス様は言おうとされたのではないかというふうにも考えられるわけです。もう少し分かりやすい言い方で言いますと、私たちがこうして礼拝を守り、献金を献げ、奉仕をしていることで、私たちが、神様の方に心を向けているということのゆえに、その内容からすれば不十分なものでしかなくても、問題性がいろいろとあったとしても、神様は、それをもってして私たちを良いとしてくださるのではないかということです。また、そのことを抜きにして、私たちが「神の国」に入れるものとされているという、確かな確証も、保証もないのではないかと思われるのです。また、実際のところ、どこまで行っても、不十分さと問題性とがあるところから、抜け出すことができないことは、誰よりも、私たちの弱さを知っておられたイエス様こそがご存じだったからこそ、私たちのために十字架にかかってくださったのではないでしょうか。その意味で言いますと、私たちの間においては、不十分さと問題性を克服することを求めることは、どこまでも必要なことではありますが、必要以上に不十分さと問題性とを問題として、誰々が悪いからということを言うことは、大きな誤りに足を踏み入れることになることを意味するのかもしれません。イエス様が、私たちのために十字架にまでかかって、私たちを赦してくださっているのですから。